便利さと不便さについて
私がブログを久しぶりにまた書きたいと思ったのは、三浦春馬さんのニュースを受けて思ったことがあったからです。
最初の投稿からテーマが重いかも知れませんが思いつきのブログなのでご容赦ください。
ある日、ふとヤフーニュースを見ていたらそのニュースが目に入ってきて、
最初は三浦春馬さんがコロナにかかったのかなくらいに思ってました。
そしたら、そうではなく『死』という強烈なワードがあって、とても驚いたのを覚えています。
それから、そのことを信じれず、似たような名前の昔の芸能人のことじゃないかと何回か見直しました。
とはいうものの、私は特別なファンではないし、ただ、なんとなく悲しいし、信じれないし、なんで三浦さんが、と思うくらいでした。
でも、真実は分かりませんが、『誹謗中傷による自殺』という可能性があるということを知り、このもやもやした気持ちを書いておきたいと思ったのです。
三浦春馬と聞いて、嫌なところは一つも思いつきません。
芸能人の中にはかっこよかったり、演技がうまくてもなんか嫌いとか、性格悪そうだなとか勝手に思うことがありますが、そんなこと全然ない。
なのになぜ?と思いました。
また、確かではないことで妄想を膨らませるのはよくないですが、記事を見ると
家族が悪いように書かれていたり、元恋人のせいにしているものもありました。
「あの時、仕事をやめさせてればよかったんだ。」
本当にそうですか?
もしそれがそうならそう思って一番悲しくて悔しいのは家族なんじゃないか、と思う。
しかも、その時、仕事を続けることになったから、今の作品もあり、それでファンになった人もいるのではないか。
やめてたら知らなかった人もいると思う。
だから何が正しかったかなんてわからない。
さらには誹謗中傷で苦しんでいたかもしれないと分かっていて、また元恋人へ誹謗中傷を繰り返す。
何なんだと、これは。
誹謗中傷で大切な人を失ったからかもしれないのに、またその誹謗中傷で誰かの大切な人を奪うんですか?
そんなに言葉って簡単だったっけ?
SNSってとても便利で、スピード感がすごい。
その分、いろいろな情報があふれていて、正しいのか間違っているのかを判断するのが難しい。
現に上に書いていることもネットから手に入れた情報で真実かどうかは分かりません。
ただ、昔はもっと言葉を選んで届けていたような気がします。
例えば、友達を遊びに誘うのも、家に電話する、前もって学校で約束する。
それって結構大変なことで、もしかしたら親が出るかもしれない、この時間はもう迷惑かもしれない、他の友達の前で誘うのは恥ずかしい、とかいろいろなハードルがあって、それを乗り越えて発した言葉だったと思うんです。
だから自分にとってそれが本当に伝えたいことじゃなかったら伝えていなかったと思います。
わざわざ面倒くさいことをしてまで、どうでもいいことは言わないと思います。
仮に悪いことだとしても、です。
あいつのことやっぱりムカつくな、文句言ってやろう、と思って、躊躇なくわざわざ自宅の家にまで電話して言います?
きっと一回は立ち止まって、言うべきかどうか、考えると思うんです。
大概、そこまでしなくていいか、となるはずです。
最近ではLINEなどコミュニケーションツールもあって、個人に時間関係なく言葉を届けることができます。
とても便利でありがたいです。
でも便利になればなるほど自分の言葉に対する責任が小さくなっているような気がしてなんだか寂しいな、と。
不便な時代にはもっと言葉を選んで、届けていたような気がします。
不便だからこそ言葉を選んで自分の言葉に責任を持っていたような気がするんです。
こんなことを書いている私も芸能人の悪口をTwitterに書くこともあるので、私も全然できていないのですが、どうせ言葉を発するなら前向きなことを言おうよ、と。
そう思います。
極端な話、あと1回しか言葉を発することができなかったら何を言いますか?
少なくとも私は人のことを悪く言うことでその貴重な一回を使いたくないと思うし、
もっと他に言うことがある人生を送りたいと思っています。
やっぱり、一回目からテーマ的に重たいか…w
でも、まぁいいか。
またあまり形式にはこだわらず、書きたいことが出てきたときに書きたいと思います。